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(四)少年ながらも、大人に負けずに「競り」をした

kagee03 さて。鮮魚問屋の仕事には、「競り」がつきものです。師は十三歳頃にはそれを身につけ、大人たちに伍して、立派に商いをしていかれました。前の晩から各船の翌朝の水揚げ量に見当をつけ、同業者より早く浜に出て、競りも手早くすませてしまう。小さな身体で機敏に動く安太郎少年は、耳が大きかったので「耳安」と呼ばれ、働き者の商売上手だと、評判になっていたそうです。
 後に師は教話のなかで、ひとつの仕事に熱心に取り組み、習熟すると、勘が冴えてくるという話をしておられます。そしてこの魚の水揚げについても、山になったそれをひと目見ただけで、「何百何十何貫何百匁(もんめ)と、何百匁まで言えるようになる」と言っておられますが、師自身が当時、その勘を身につけておられたのでしょう。
 ただ、この魚の競りには取引量や利益のごまかしが横行しており、むしろ、ごまかし上手が「遣り手」だと評されていました。だから師の回想では河清も、「そんな事を五代もやっていました。その代わりヨウ儲かります。ヨッポド儲かりまんねん。楽な商売であって、ヨウ儲かるが、たおされている事もまたおびただしい」のでした。
 しかし師はそういう商法を嫌われ、大阪へ出られてのち、故郷の人からもう一度その商売をと勧められても、ああいう盗人のような商売は、「平に御免をこうむります」と断っておられます。
 何事についても、とにかくきれいに、まっすぐにやっていきたい。その潔癖な思いが、非常に強かったことがわかります。

 そんな師にとって、数少ない娯楽であり、同時に修養の糧ともなったのは、軍談(講談)でした。毎年、夏になると講釈師がまわってくるので、それを聞くのを楽しみにしておられたそうです。
 余談になりますが、これは当時の芸人さんの世界で、「夏枯れ」と言われていた話と一致します。つまり大阪の町なかの寄席や講釈場は、狭くて冷房設備もないので、夏場は客が入らなくなる。そこで、落語家や講釈師は日銭を稼ぐため地方回りに出たそうで、和歌山方面もそのひとつだったのでしょう。師の経験談が、大阪の演芸史に伝わる話の裏付けになるという、興味深い事実です。
 そして師は十四歳頃には、仲間と金を出し合ってその講釈師を一ヶ月ほど雇い、さまざまな話を聞かれました。現代の感覚で言えば、中学生が大人のプロを雇って芸を披露させていたことになり、時代の違いの大きさを感じるとともに、そういった面では、師がすでに「大人」並みであったことがわかるお話です。
 また、講談が好きだったのは、登場する英雄豪傑から大泥棒まで、そのテッペキ(頂点)が描かれているからとのこと。孝の頂点、義の頂点、信の頂点。それらを吸収し、いわば「理想」を「現実」の目標にして自分を鞭打っておられたわけで、「とにかく前へ。テッペキまで!」という、師の気質にある「激しさ」が感じられます。

ただしこの時代の師は、信心ということについては、まだ関心を示してはおられませんでした。それどころか、信心するような者はバカで、「まともな人間なら、あんなことはするもんじゃない」と考えておられたそうです。
 ですから、妙見さんを信心しておられた先代当主から、家にあるその像を「拝ましてやるから、手洗え、口洗え」と言われたときにも、「これが、そのありがたい妙見さんですか。ちょっとも仏さんらしいことない。やっぱり腕力家ですな」と言って、大変叱られたということです。妙見菩薩は怖い顔をして刀を振りかざしていますから、腕力家は、暴力をふるう者という意味でしょう。

 何にせよこの当時、師は小学校をやめたあと、商売や雑用に追われる日々を送っておられたわけですが、中国の古典『孟子』には、「天が人に大任を降(くだ)そうとするときには、まずその人の心身から運命に至るまでに、苦しみを与える」という説があるそうです。無論、その「大任」を知るよしもない若年時代ですが、師に与えられる「苦しみ」は、まだまだ続くのです。

湯川安太郎 その人と時代

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