玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(六)金策の苦しさに、「誰か殺してくれんか」とまで思っていた

 鮮魚問屋「河清」をひきうけていた時代、師は金策については苦しみぬかれました。
 「もう、明けても暮れても金!金!で、借金で追い立てられる」「十三や十四はまだ子供だ。駄菓子でもしゃぶって遊びたい時分ですが、私はそんな時分から金で泣いてきたのであります」
 師のこういう言葉も残されており、十六歳、十七歳の頃には、「寝ている間に、誰か来て、わしを殺してくれんかしらん。殺されたら助かるのに」とまで、思われたそうです。
 そして、「あんまりつらいので、これでは生きて行けんように思い」、倉のなかで短刀を腹に当てて、自殺をはかられたこともありました。
 しかしその寸前、自分が死んだらあとはどうなるか、また母親がどれだけ悲しむか、しかもその悲しみは長く続くのだということに気づかれ、あやうく思いとどまられました。後年、師は教話のなかで、「これを思い出すことが、一分間早かったために、私は死なずにすんだのです。これも、親のおかげですな」と言っておられます。

 ただしその間、当時の師のことを、「親孝行で、勉強家で、真面目、正直な人だが、かわいそうに……」と思ってくれた人が、「必要なだけ、金を貸してやる」と言ってくれたこともありました。
 だから師は安心し、ありがたくも思い、何度か当座の面倒を見てもらわれたのですが、ついつい、その親切に甘えるという気持ちになられたのでしょう。しばらく顔を出さず、いざというとき拝借を頼みに行ったら、「いま出したばかりでちょっともないねん。君のところへ借りに行きたいくらいだ」と、逆ねじを食わされたそうです。
 それによって師は、人間、無精をしてはいけない、世話になる人のところへは、用事があってもなくても、絶えず顔を出しておくべきだと悟られたという、そんな経験もされたのです。

 ともあれ、悲惨な年月を送らされた師は、遠からず店はつぶれるに違いないが、「今なら、まだ余裕があるから」と、河清を整理されました。代々の屋敷を手放し、卸し売り市場の店と営業権も譲渡して、溜まりに溜まった借金を清算する。そして別に小さな店を持ち、跡継ぎにあたる人と共同で商売をつづけられたのです。
 だから師はその人に、「河清の六代目にならなければならんのだから、あんたがしっかり勉強してやってくれ」と、励ましたり、忠告したりしておられました。しかし当の本人は、身内からも「頼りにならんと思う」と言われていた人なのに、気位だけは主人のつもりでいたそうです。
 といって、師にしてみれば、「商売の分からん人の言うとおりに動くこともできない」ので、共同経営もうまくはいかなくなってきました。
 そこで師は考えに考えた結果、自分は思い切って身を退き、いまは親不孝のようでも、「どこかで一人前になって親に難儀させないようにするのが、本当の行き方じゃあるまいか」と、二十歳のとき、家を出る決心をされたのです。

湯川安太郎 その人と時代

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