玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

MENU

(七)奉公先の主人は、「私の嫌いな顔」の人だった

 明治二十三年(1890)の六月。二十歳の師は、いよいよ大阪へ出られました。商売人として成功し、親を引き取って孝行したい。また、世話になった親戚の先代老夫婦や、亡くなった当代主人の奥様の、面倒もみさせてもらいたい。そんな願いを抱いての出発でした。そのため、すでに大阪に出て働いている友人に前もって手紙を出し、奉公先の紹介を頼んでもおられたのです。
 ただし、長年面倒を見てもらった家を出るのは、そう簡単なことではありませんでした。「河清」の後継者は頼りにならないので、皆が師の働きに期待し、商売を盛り返してほしいと願っています。それに対して、師の思いをうちあけても納得してもらるはずがないので、口実を作って、逃げるように大阪をめざされたのです。
 行李(柳や竹を編んで作った荷物入れの箱)ふたつに着物を入れ、商売人らしく「前垂れ」も入れて、おかね五円を持っただけの、着の身着のままという姿でしたが、それは「物を持って出たら恥」、「物を持たず無一物からやりあげて一人前になるのが本当」だと思われたからです。美学、矜持、筋論。解釈は様々にできますが、何にせよ、秘められた決意の強さがわかるお話です。
 ちなみに当時、大阪と和歌山を結ぶ鉄道はまだ開通しておらず、だから師も人力車と徒歩で出られました。離れて住んでおられる自身のお母様の家にも、ちょっと立ち寄って挨拶されただけという、慌ただしさだったそうです。

 江戸時代以来、大阪は全国の物資が集まる巨大な商都でした。海産物なら、靱一帯の問屋が塩乾物、少し北西の江之子島にあった雑喉場(ざこば。魚市場)が鮮魚を扱って、繁盛していました。
 そして、前記の友人が紹介してくれたのは、靱の貴田商店という塩乾物問屋だったのですが、そこの主人と対面した瞬間、師は「ヒヤッ!」とされたそうです。なぜなら、それまで鮮魚問屋で大勢の人を相手に商売してこられた過程で、眼前の主人と同じような顔つきをした人に、二人ほど、ひどいめにあわされていたからです。
 だから師は、「この人の顔、私の嫌いな顔や」「えらい人を主人に持ったな」と思われましたが、友人の紹介による店でもあるため、どんな人でも主人は主人と、奉公の腹を決められました。後日、待遇の相談を受けたときにも、「私は丁稚から始めます」と言われ、衣食住は店持ちで小遣いが月に一円という、そこから始められたのです。
 それにしても、よりにもよって主人が嫌いな顔をした人とは。人間の側から言えば「よくよく運の悪い偶然」ですが、神さまの方からは、やはり「ゆえあっての計らい」だったのでしょうか。

 おまけに当時の常識として、丁稚というのは通常、十歳前後で奉公を始めた「駆け出し」の立場です。そこへ二十歳の、商売経験も積んだ師が入られたのですから、店の使用人たちに対する気遣いも大変だったことでしょう。
 「そら始めから覚悟はしておりましたが、周囲の空気になじんでいくのは、なかなか用意なことではなかったです」
 後年の師の回想として、こんな言葉が残っていますが、和歌山と大阪では、生活や商習慣に違いもあったでしょうし、慣れるまでは随分気苦労もされたに違いありません。
 食べ物にしても、和歌浦の新鮮な魚になれていた口には、棒鱈(乾物にしたタラ)を水でもどして炊いたおかずなど、最初はそのにおいにムッとして、もどしそうになったそうです。

湯川安太郎 その人と時代

湯川安太郎 その人と時代

Copyright © 金光教 玉水教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.