玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(八)日本も大阪も、金光教も発展していた

 大阪で奉公を始められた師には、その時代の鮮魚や塩乾物に関する商売の、人や現場の雰囲気がよく伝わってくる、愉快な話も伝わっています。
 河清時代のつきあいで、師には四国や紀州に得意先がいくつもありました。貴田商店に入った当初、一度そちらへ挨拶まわりに出かけられたのですが、そのときには挨拶用に酒を買い、魚市場へ出かけて、顔見知りの人を捜されました。
 そしてその舟に乗せてもらい、阿波(徳島県)まで連れていってもらって、その家に泊めてもらう。翌日は小松島で夜中の二時まで飲まされ、そのまた翌日は別の得意先の家に呼んでもらう。「あっちからも、こっちからも呼ばれて、まるで無銭旅行してるようなもの」だったそうです。
 それから紀州の熊野へまわり、鯖を大量に仕入れて塩漬けの樽詰めにさせ、店を出るとき主人からもらった小遣いの十円など、軽く埋め合わせるだけの儲けをつくって帰阪されたという、活気にみちた、豪快と言ってもいいお話です。

 さて。ところで。ここで、以後の師の生活と商売の舞台になる、当時の大阪について少し触れておきますと、上阪される前年に、東・西・南・北の四区を持つ大阪市が誕生しています。
 近畿では同じ年に、堺、京都、神戸、姫路とともに、和歌山の旧城下区域も市になりましたが、人口は大阪市が約四十七万人で、和歌山市が五万人余りでした。ですから師も当初は、人の多さと喧噪ぶりに驚かれたかもしれません。
 同じく前年の明治二十二年は、大日本帝国憲法が発布され、東海道本線が開通した年でもあります。日本の発展、大阪の繁栄。その活気のなかで、師は大阪暮らしを始められたのです。

 一方、金光教関係では、国の宗教政策の枠内でとはいえ、すでに明治十八年に「神道金光教会」が認可され、教勢を拡大しつつありました。
 二代金光様の時代であり、教団設立には、佐藤範雄、白神新一郎(二代)、近藤藤守の各師が尽力されました。そしてその白神先生は大阪教会、近藤先生は難波教会と、大阪での布教も大いに発展していました。状況はまさに、「金光大神賛仰詞」にあるとおり、「直信先覚先師ありて道はいや広がりぬ」だったのです。
 しかしこのとき、師は信心にも金光教にも、まだまったく関心を示してはおられませんでした。それどころか信心している人をバカにし、ご利益があった、おかげを頂いたと言う人たちには、偶然の結果だとか、神経作用に過ぎないとか、理屈を並べておられたのです。このあと、瀕死の大病を経験されるまでは……

湯川安太郎 その人と時代

湯川安太郎 その人と時代

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