玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(十一)どうやらホントの神さまらしい

 師は瀕死の大病を、「親のために」助けてくださいと天地金乃神に願って、起死回生のおかげをいただかれました。理屈屋の師もその当座は、「やっぱり、神さまはござるんじゃ」と、ありがたく思い、大喜びされていたのです。
 ところが日にちがたつにつれ、病気が見る見る治ったのは本当に神さまの力によってだったのかと、また理屈や疑いが出てきました。そして師はそれについて、三つの可能性を考えられました。
 一番目は、神さまが実際に存在していて、自分の願いを聞き届けてくださり、治してくださったのだという判定。二番目は、あの病気がちょうど治る時期になっており、それと神さまに頼んだ時期とが、「偶然」重なっていたのだという解釈。そして三番目が、神さまに頼めば治してもらえるという思いが身体にも影響し、その神経作用(自己暗示)で治ったのではないかという仮説。
 つまり、快癒は「おかげ」なのか、「偶然」なのか、そとれも「暗示」によってなのか。どれが本当なのだろうという疑問ですが、そんなことは、そう簡単に答を出せるものではないわけです。

 ただしそうやって考えたのは、理屈のための理屈ではなく、師には「神さまがあれば信心して、頼みたいことが仰山あったから」でした。和歌山で苦労して暮らしている、母親の面倒を見させてもらいたい。世話になった親戚の人びとに、恩返しもさせてもらいたい。そのために商売で成功して、経済面の余裕を持たせてもらいたい……
 だから、神さまのあるなしをはっきり知りたいし、あれば信心もさせてもらいたいのですが、教会へ行く決心はなかなかつきませんでした。
 なぜなら、もし偶然に治ったのを神さまのおかげだなどと思ってたら、「おめでたいことになる」。また、教会へ行ったら、聞かされることは大抵「わかってる」。わかってて聞きに行くのは「あほらしい」。おまけに、今まで友達に勧められても信心に反対してたのに、その自分が神さまに参ったと、皆に言われるのも「業腹だ」。そんな具合に、内心の抵抗をつづけられたのです。
 後年、師は「こんなこと考えて、ようバチがあたらなかったことですな」と自身で言っておられますが、当時は、意志も強いかわりに、なかなか我も強い人だったことがわかる逸話です。

湯川安太郎 その人と時代

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