一方、信心については、商売を始めてまもなく、夏の盛りに家々をまわってもまわっても、まったく売れないことがありました。
腹立ちまぎれに、重い荷物を川に放り込んでやろうかと思ったほどで、汗みずくで帰宅してからも怒りを抑えかねておられたのですが、そのときふっと、「これは神さまのお試しではないか」という思いがうかびました。
途端にがらりと気持ちが変わり、お試しなら怒っている場合ではない、良い修行をさせていただいたのだからと、神前でお礼を申されました。
そしてその修行も、「三年以上となると荷が勝ちすぎるが、三年くらいなら辛抱させてもらえる」と、翌日からは勇んでまわられたそうです。
結局、そのお試しは数日で合格させてもらえ、品物がまた売れるようになったのですが、それにしても、この「三年くらいなら」という腹の据え方、据わり方は尋常ではありません。
三年間何も売れなくても、その間まったく収入がなくても、毎日神さまに修行のお礼を申し上げていく。その覚悟ができたのは、すでに師が「ままよ」の心を得ておられたからでしょうか。
そういった日々、師は教会に日参しながら、信心の勉強と研究にも努められました。
一例をあげれば、声に出してご祈念している人の横に座って、お願いの数をかぞえてみると、長く通っている人ほどそれが多くて、ご祈念の時間も長くなっていました。古い信者さんなど、あれこれ三十五件か六件にもなっています。
信心が進めば欲というものが少なくなるはずで、そしたらお願いの数も減るだろうに、これは逆ではないか。間違っているのではないか。
そう思った師は先生に申し立てられ、そうではないということを教えてもらわれました。
生まれたての赤ん坊の欲といえば母のおちちを吸いたいということだけだが、大きくなるに従って、あれも欲しい、これも必要、こんな願いもかなえてもらいたいと、欲が増えていくでしょう。信心もそれと同じことで、進めば進むほど、願いも増えていくのが本当なのです……
そうやってひとつひとつ、「なるほど!」という、理解と得心を積み重ねていかれたのです。