玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(二十三)試しに三年間お供えをせず、「研究的態度」で、教えの確認をされていた。

 「私の心は、よく決まる性分なのです。人はこうあるべきもの、こう進んで行くべきものなり。そう思って腹が決まったら、もう動かない。これは自信をもって申し上げられます」
その言葉どおり、師は商売も信心も「決めた腹」を動かさず、熱心に実践していかれました。
 特に信心については、「私の踏んでいこうとする道と、この道とは大きな違いがない」と思われました。それは、親先祖を大切にとか、何事にも報恩感謝の気持ちをもってとか、ご自身の思いと基本になる教えとが、一致していたからでしょう。
 しかし、教会の先生が日々教えておられることが、本当に事実なのかどうか。信心始めの時代にはそこがわからないので、「研究的態度で」実際の現れを調べつづけられたのです。
 たとえば、「お供えとおかげはつきものではない」という教えがあり、これは、「お供えしなければおかげがいただけない、というわけではない。また逆に、お供えしたからといって、必ずおかげがいただけるとも決まっていない」ということです。けれども師は信心する前は、宗教家は信者を騙して金を取るものだと思っておられましたから、どうしてもそこに疑いが残ります。
 そこで、その教えが本当か否かを確認するため、「どうじゃ。これでおかげくれるかどうか」という気持ちで三年間、普段ばかりか大きなお祭りのときでさえ、一切お供えをされませんでした。それによって、おかげの有る無しと「先生の顔色を」見られ、本当の教えであると得心されたのです。

 信心を途中で止めたらどうなるか。これなど、止めた信者さん、止めずにつづけている信者さんの様子を、十五年調べつづけられたそうです。
 そしてその結果、神さまは人を本当の意味で救うためには、信心の度合いによって、おかげの手加減をなさることもあると確認されました。
 ですから後年、師は教話のなかで、それを「ぼた餅のおかげ、唐辛子のおかげ」というたとえで、わかりやすく説明しておられます。
 ヒリヒリする唐辛子を最初から与えたら、それも実はおかげなのだが、まだそこまではわかってない信者さんが、信心をやめてしまう恐れがある。だから、まず甘くておいしいぼた餅を与えておいて、そのあと唐辛子にされたりなさる……
 つまり、願っても願ってもおかげがないという、その唐辛子のときこそ、おわびとあらたまりでめぐりを取っていただく時期なのに、そこで止めてしまったら元も子もなくなるという、そんな事例を、信者時代から数多く確認されたのです。
 とはいえ止めずにつづけても、そんなときには「フラフラになりまっせ」と、師は信心継続の厳しさを告げてもおられます。

湯川安太郎 その人と時代

湯川安太郎 その人と時代

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