玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(三十)そうだ。「神さまはご主人。自分は奉公人」なのだ!

 ただしこの場合の天職とは、一般にいう適職のことではなく、どんな仕事も天の職、神さまが用意され、人に与えておられる職なのだという意味です。途端に師の思いが進んで広がりました。
 とすると、人は皆、天の神さまの様々な仕事を、おのおのが分担させてもらっているのだ。なのに自分の腕を頼りにやってきたのは、神さまの商売を「させていただく」ではなく、それを横領して、自分の商売を自分が「してきた」ことになる。
 つまり、「腕をふるう」ことが間違いだったというよりは、もっと根本、自分の商売は神さまの商売なのだということを考えず、これは自分の商売なのだからと思って自分の力でやってきた、その考え方が間違いだったのだ。
 ということは、商売繁盛を必死にお願いもしてきたが、それも自分の都合のみを願った形だけのもので、真の願いにはなってなかったことになる。つきつめれば、そもそも自分の信心自体が、本当の信心にはなっていなかったのだ!
 自分は熱心に信心してきたという、その思いも土台から崩され、ここに「改心」以上の「回心」、根本的な心の変革と覚醒が生まれたのです。

 師はお詫びをされ、誓われ、願われました。
 「神さま、何とも申し訳がございません。今日限り、私は(自分でするという)商売をやめ、私のこの腕をお供えさせていただきます」
 「どうぞ、あなたが、私のこの腕をお使い下さいますよう、お願い申します」
 「神さま。あなたは私のご主人です。どうぞ、この私をあなたの奉公人として、お気の召すままにお使いください」
 それにしても、誠実に商売をし、熱心に信心をつづけて、とうに神さまとお話もさせてもらえていた師にして、ここまで苦しまれたという、その事実は何を示しているのでしょう。
 人間というものが、それほどまでに「物事を自分の側から見てしまう」存在なのだということでしょうか。それとも、師の将来に対する神さまの思いゆえに、改心を超えた、劇的な回心への道筋が用意されていたということでしょうか。
何にせよ、師は覚醒されました。世の中の仕事はすべて神さまの仕事であり、それを人間一人ひとりが、分担させてもらっているのだ。だから、仕事を「する」ではなく、「させていただく」と捉え、その思いで働くのが本当なのだ……
 明治三十四年、三十一歳のときのお話ですが、布教開始後の玉水教会で教えの基本になる、「神さまはご主人。自分は奉公人」という姿勢が、ここで定まりました。そしてそのとき、師は神さまに、「長い間ご心配をおかけいたしました」という、意味の深いお詫びもしておられます。

湯川安太郎 その人と時代

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