玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

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(三十七)人助けの「腕」ができたら、天地が放っておかなかった

 『それは、日露戦争で旅順が陥落した明治三十八年一月のことです。道広教会の稲垣先生から、突然、「金光様のお言葉だから、土佐堀で布教を始めたらどうか」というお話です』
 「我が信心のあゆみ」(大正十三年出版)にそう書いておられるごとく、師は当時通っておられた教会の先生から、唐突に開教を勧められました。
 けれども前に紹介したとおり、師は「先生になるのが嫌だった」「教会所を持つのが嫌いだった」ので、将来の望みとして、「商売で成功してまとまったお金を作ってから、全国をまわってお手引きを」と思っておられました。
またそれについては、若い男性に兵役の義務があった時代ですから、「せめて子供が兵隊すむまで、それで商売も子供に譲ってから」と思っておられ、その年齢の見当として、「五十から御用さして頂くつもり」にしておられたのです。
 そこで、さっそくご本部に参拝され、三代金光様にその旨を申し上げられました。
 すると、「まだ時期が早いように思われますので」という師に、金光様は、「人がかれこれ言うのが時期じゃ。時期が来た」とおっしゃいました。

 教祖の奥城にも参って祈念し、あらためて猶予を願われましたが、
 「その方は、金が欲しいのか」
 「いえ。信心すれば、このとおり世の中もままになるという、見本を作りたいのです」
 「その方が欲しくないのなら、欲しがってる者に持たしてやってくれんか」
 「そんな難しいことは嫌です」
 「難しいことを言えとは頼まん。その方の安心の得られたところを、教えてやってくれたらよいのじゃ」
 こんなお言葉の結果、遂に師も、「ご神命」拝受の決心をされたのです。後年、そのいきさつに関して、師は概略こう言っておられます。
私は五十からの御用に備えて、「腕は十分こしらえておく必要が」あるので、「腕を磨くよう、功をあせらんよう」「目的を急がず、反対に腕を急いだ」。その結果、「腕ができたから、その腕を天地が認めてくれたら、ほっとかん」「急がばまわれで、(自分の見当よりは)十五年早く教会を持ちました」
そして、「大抵は、できてもいない腕を自分で認めて、勝手なことをやるから、失敗の憂き目はまぬがれない」のだとも、言っておられるのです。

湯川安太郎 その人と時代

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