玉水教会初代大先生70年祭奉迎記念Site

MENU

(三十八)ただ、祈りのみを「布教資本」として、 長年にわたる勤めを開始された

 ともあれそんなわけで、師は開教の準備を始められ、それまでの商売は無償で親戚の男性に譲り渡して、土佐堀裏町の布教所に移られました。もちろん家族揃ってですが、その前に、師は奥様に「別れ話」を持ちかけておられます。
 突然のことですから奥様は、「私にどんな粗相があって、そない言われるのですか」と、顔色を変えられました。
 いや。そうではなく、私はこれから好きなことをして死のうと思っているのだ。好きな仕事のことだから、私は一命を失ってもかまわないが、あんたにまでその側杖(そばづえ)を食わせて、死ぬ思いをさせるのは本意ではないから……
 言葉を濁される師に、奥様は「仕事って、何をなさるのですか。それで骨になるのなら、死なばもろともです。死んでもかまいません」と言われ、そこで師もご神命をうちあけられて、布教の厳しさについて、念を押されたのです。
これまでと違って、お金の入るあてがない。まかり間違えば、飢え死にしなければならないかもしれない。とにかく死ぬことを覚悟してかからなければならないが、付いてこられるだろうか。どんなに難儀しても愚痴を言わず、死んでもままよというのなら、別れなくてもいいのだが……

 かくして、奥様もその覚悟を定められた結果、明治三十八年(1905)、師が三十六歳になられて三カ月余りの四月二十日が、お取次の御用始めの日となりました。
 お金五円と、お米一斗五、六升持っただけの布教開始でしたから、その前後には信心友達が心配して、一年間の家賃を出そう、米代を持とうとも言ってくれました。しかし、それは善意の言葉ではあるものの、ご自身の信念に反するので、師はすべての申し出をはねつけられました。
 私はいま、昔の武士の「晴れの一騎打ち」のつもりでいるのだ。横からの手出しは一切無用。武運つたなく倒れたら、その骨を拾うのが本当の友達じゃないか。邪魔をしたら許さんぞ……
 裂帛の気合いがこもった言葉ですが、けれども現実の姿としては教えに従い、「出歩いて助けに行くのでもなければ、東西屋(チンドン屋)やビラで触れ歩き」をするわけでもない。
 「病気不時災難不都合不幸せなる氏子、または天地の御恩を知らぬ氏子も共にお引き寄せ下さいまして、信心さして頂き、安心のおかげをお授け下さいますよう……」
 この願い、その祈りのみを「布教資本」として、以後、亡くなられる昭和十九年(1944)の二月一日まで、連日連夜、さらなる苦難に出遭いつつも、勤めに励んでいかれたのです。

湯川安太郎 その人と時代

湯川安太郎 その人と時代

Copyright © 金光教 玉水教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.