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(三)学校をやめさせられ、立場のつらさが身にしみた

wakanoura01 初代大先生が預けられていた親戚は、和歌浦の「河清」という鮮魚問屋でした。代々続いてきた商売で、家も大きな屋敷だったそうですが、その頃には、衰運に傾いていました。そのため、師は店を手伝いつつ、地元の和歌浦小学校に通わせてもらっていたものの、三年ほど通った明治十三年(1880)に、やめてしまわれました。
 当時、小学校は四年制で、義務教育でもなかったとはいえ、勉強が好きでまだ十歳という少年にとって、それはどれほどつらいことだったでしょう。後年、師は教話のなかでそのときのことを、「店の丁稚が一遍に三人もやめたので、自分がその代わりに働こうと思い、わしはもう学校がいやになったからやめると言って、やめたんだ」と、言っておられます。
 しかし、二代大先生は『先代を語る』のなかで、「学校をやめえと言われ、そんな時には父親のない身の上の悲しさを、痛切に感じたらしい」とも、語っておられます。多分、「やめえ」と言われたのが本当でしょうが、とすると、それを「自分からやめた」と言われたときの師の心には、どんな思いが去来していたのでしょう。

 また、当時の師に関しては、「松原街道のお化け」というエピソードも残っています。これは、世話になっている家の先代当主が釣り好きで、早朝から出かける前夜には、その餌にする小さな川エビを、師が買いに行かされた話です。
 一里(約3.75㎞)ほど離れた店まで、一人で歩いて買いに行くのですが、冬の夜中など寒いので、手ぬぐいか何かでほおかぶりし、途中にある松林のなかの道を通って往復しておられたのです。するとそのうち、「あの松原街道にお化けが出る。白い頭の背の低い化け物が出る」という評判が立ったそうで、それを聞かされた師は、「ああ、分かった。それは自分自身や」と、ひそかにおかしがっておられたということです。
 しかし考えてみれば、これもおかしいばかりの話ではなかったのではないでしょうか。先代当主は師に親切にしてくれ、ときには釣りにも連れていってくれたそうです。とはいえ、お化けの評判が立ったのは、買いに行かされる回数が少なくなかったからでしょう。そして師は、二里ほど離れたところに済んでおられる自身のお母様には、二年に一度くらいしか会いに行けませんでした。
 だから、一里の夜道を往復しながら、世話になっている身のつらさを、思われたこともあったに違いありません。後年の師は、ご自身の幼少期のことはあまり語られなかったとのことですが、「語られなかった重み」というものがありそうで、強く鍛えた心の奥底には、やはり「哀しみ」が秘められていたのではないでしょうか。

湯川安太郎 その人と時代

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